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亡くしてから10年~9.11 日本人犠牲者家族の生き方~

残しておきたい記事だったので、全文を載せました。

亡くしてから10年。9.11 日本人犠牲者家族の生き方

米同時多発テロでは、多数の外国人も亡くなった。10周年が近づくにつれ、家族は、心を癒す道のりが困難だったことを思い出す。日本でも、犠牲者の家族がこれまでの日々を振り返っている。

■日本人家族のために尽くす

 住山 一貞さんの一人息子、陽一さんは、9月11日の同時多発テロでで亡くなった24人の日本人犠牲者の1人だ。陽一さんは当時34歳で、日本の銀行の米国事務所にいて犠牲になった12人のうち、最年少だった。

 64歳の住山さんは犠牲者の親の中では若いほうだ。したがって、亡くした家族の思い出を保つため、一生懸命働く責任があるという思いに駆られるという。9年前に引退してから、住山さんはこのことに最も時間を使ってきた。日本の家族のためのウェブサイトをつくり、日本や海外でのニュースやさまざまなできごとを並べている。息子を捜した経験についての短歌を書き、作曲もした。その中には、陽一さんに捧げる「レクイエム」もあり、妻のマリさんが演奏している。

 同時多発テロ10周年に向けて、中野区の勤労福祉会館で展示会も開いた。東京中心部の騒々しさから離れた、静かな住宅街での小さな展示会だ。テロ当日の恐怖をとらえたプロの作品から、住山さんがニューヨークを訪れて撮影した写真まで、20点ほどが展示された。

 住山さんは、「何かやっていないと、いられないもんですから。自分の悲しみを何かの形で表したいんです」と語る。

 米国では犠牲者の家族が強いきずなで結ばれているが、日本ではそうした関係はできなかった。国中に散らばり、めったに会うこともない。日本の家族のための公式な組織もない。最も活発に活動しているのが住山さんで、22家族と連絡を取り合っている。残りの2家族は海外にいるため、居場所を知るのが難しいという。

 住山さんは、「皆さん、特に親の世代は気持ちの中に深い悲しみを抱えている。他の方と一緒に話すとまた思い出したりするので、じっとしていたい方も多い」と話す。「そういう方を無理に引っ張り出して『会を作りますか?』ということはできない」

 地球を半周してグラウンド・ゼロを訪れる家族は、年々少なくなっている。13時間の飛行は年配者にとっては苦痛で、幼い子供を抱えた女性には困難だ。そして渡米したら外国語が待っている。痛々しい記憶を掘り起こしに行くには、遠い道のりだ。

 住山さんが9月11日に米国を訪問しなかったのは、これまでで1度だけだ。忙しかったために、揺らぐ感情を紛らわせることができてよかったと思っている。

 だが、10周年には多くの人がニューヨークへの長い旅に出る。テロが起こって、愛する家族をツインタワーのがれきの中で捜すため、初めてともに米国に旅立って以来、最大のグループとなる。犠牲者の妻や子供、兄弟など、38人が訪米する計画だ。彼らはグラウンド・ゼロで開かれる追悼式典に参加し、9月11日の犠牲者と日本の3月11日の震災犠牲者のためのコンサートにも出席する。

■アフガニスタン再建に力を注ぐ

白鳥 晴弘さんの一人息子、敦さんは、ワールドトレードセンター北棟の105階にあるカンター・フィッツジェラルドで仕事をしていたときに、テロ攻撃で亡くなった。36歳だった。

画像を拡大する

Shiratori family
2006年にニューヨークを訪れた白鳥晴弘さん
 それ以来、白鳥さんは攻撃の背景にある理由を理解しようと苦闘してきた。2004年には、ウサマ・ビンラディン容疑者に手紙を手渡すため、パキスタンへ飛んだ。英語と日本語、ペルシャ語で書いた手紙を携え、パキスタンの山間部を1週間車で走り回った。

 白鳥さんは、「現実には会えることはない。もし僕が個人で会えるなら、アメリカのCIAが探しているはずだ」と話す。白鳥さんは復讐には興味はなかった。答えが欲しかったのだ。「どうしてそういう事をしなければいけなかったか、僕は聞きたかった」

 東京の焼き鳥屋のオーナーである白鳥さんは、息子は「アメリカン・ドリーム」を実現させ始めたばかりだったという。父親には実現できなかった夢だ。白鳥さんは、すべてが大きく輝いて見える米国にどれだけ行きたいか、息子によく話していた。敦さんは高校卒業後に渡米し、カリフォルニア大学サンタクルーズ校を卒業した。父と息子は仲が良かった。何についてもお互いを刺激し合う「ライバル」だった。

 ビンラディン容疑者からの答えは得られなかったものの、白鳥さんはフラストレーションを転換する方法を見つけた。パキスタンを訪問したあと、白鳥さんはアフガニスタンの首都カブールに行き、ひどく破壊された風景に胸を打たれた。折れ曲がった飛行機が横たわり、戦車が街を走り、荒廃した建物が地平線上に点々と並んでいた。

 荒れた街並みは、第二次世界大戦末期に空襲で焼かれた東京を思い出させた。白鳥さんの父親も、そのときに亡くなった。地元の人と話すと、攻撃により米国への気持ちが頑なになっているのが分かった。そして、双方が誤解し合うことにより、将来も悪循環が繰り返される。

 白鳥さんは、子供たちが大きくなったときに何が起こるだろうかと考えた。やはり米国を憎むのだろうか。同じことが起こるのだろうか。

 白鳥さんは、アフガニスタンの子供たちを助けることに自分の力を向けると決めた。2004年以来、ニューヨークには行かずに8回もアフガニスタンに行った。いまでは、英語よりもアラビア語のほうがうまく話せる。同時多発テロ犠牲者の基金からの補償金や、敦さんの資産を使って、白鳥さんはアフガニスタン再建のための基金を創設した。浄水器や太陽光パネルなどを提供し、設立に協力した女子校への備品も供給。メモリアル・パークをつくるため、2000平方メートルの土地も確保した。

 今年は10周年なので、白鳥さんはニューヨークに行くという。敦さんの名前が記念碑に刻まれているのも、初めて目にする。だが、1週間後には東京に戻る予定だ。

 70歳の白鳥さんは、9月11日のイメージは見たくない、前を見ていたいと言う。


WSJ ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 

記者: Yoree Koh

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[ 2011/09/11 19:15 ] 残したい歴史 海外_歴史 | TB(0) | CM(0)

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